早期英才教育の類を基本的に否定している私は、外国語の早期教育も否定しています。
「学ぶ理由」が無いものは、身に付かないからです。
小学校低学年くらいまでの子どもにとって、何かを学ぶことは、生活の中で何かが出来るようになることです。お買い物の計算が出来るようになったり、本を自分で読めるようになったり、時計を読めるようになったり、大人とより高度な会話が出来るようになったり。
でも、外国語がちょいとばかし出来るようになったところで、普段の生活は何一つ変わりません。
生活を分かりやすく変えてくれる算数や国語の習得に大忙しな子ども達の時間を、当面は何の役にも立たない外国語の勉強のために浪費させるなんて、子どもがかわいそうです。
更なる弊害もあります。
母国語を学ぶことを自転車の練習に、外国語の勉強を自動車運転の練習に例えると、早期英語教育の愚かさがよく分かります。
子ども達は一生懸命に自転車の練習をして、どんどん遠くの友達のところに遊びに行けるように、つまり、多くの友達と母国語でスムーズに意志疎通が出来るようになっていきます。
自転車の扱いが上達してくると、細い裏道にもどんどん入っていけるようになっていきます。むしろ、そんな裏道に入っていく冒険を楽しむようになります。つまり、友達の心の奥深くの繊細なところまで入り込んでいけるようになり、そんな深い心の交流の楽しさに目覚めていきます。
一方で、自転車なんて狭い範囲にしか行けない乗り物の練習はそこそこでいいから、子どものうちから車の運転の練習をさせておいた方が将来のためになると言い出す親が出てくるわけです。
ところが、子どものうちの用事なんて自転車で行ける狭い範囲にしか無いのですから、子どもには車の運転の練習をさせられる意味が分かりません。
まぁ、出来ないことが出来るようになるのは楽しいです。アクセルの踏み込みが滑らかでスムーズな発進が出来たとかで親も誉めてくれます。LとRの発音が上手なのは早期教育の賜物だとか言って、目を細めるわけです。
でも、いつまで経っても教習所の中をぐるぐる回っているだけなので、おもしろくも何ともありません。
ちょっと高度なことをやってみようということで、クランクを通り抜ける練習などもやるわけですが、横には教習所の教官が付きっきりで、「もうちょっと早めにハンドルをきった方が良かったね」などといちいちアドバイスしてくるのは、やっぱり鬱陶しいわけで…。
せっかくだから、親が横について公道に出てみようということになっても、車の運転技術の必要性を熱く語る親が、自分は運転できないから無理だとか言い出す始末だったり…。
そもそも、車だと自転車のように裏道に入っていくことはなかなか難しい、つまり、外国語だとどんなに習熟したところで限界がどうしてもあるわけで…。
なんてことをやっていると、「自動車に乗ること」=「英語によるコミュニケーション」が嫌いになるばかりか、「乗り物に乗って出かけること全般」=「言葉によってコミュニケーションをとること全般」が面倒くさいなんて子ども心に刷り込まれかねないわけです。
それを横目に他の子ども達は、ちょっとばかし転んでも、自転車だったらどうにかなるということで、自分一人で町中を探検して回るわけです。そして、自転車で町を探検することの楽しさ、つまり、母国語によるコミュニケーションで様々なシチュエーションをくぐり抜けていくことの楽しさに夢中になっていくわけです。
自動車教習所に通い始めるのが、自転車の限界を痛感してからで充分なように、外国語の勉強なんて、日本語の限界を痛感してからで充分です。
なんてことを言うのは、私自身が何度も英会話の勉強を始めようとして挫折した経験から、そもそも差し迫った必要性を感じていない勉強が続くわけがないと悟ったからです。
私の人生で英会話能力が最も高かったのは、英会話のリチャード先生と帰り道が毎日いっしょになって、電車の中での沈黙に耐えられなかった高校時代でした。何かしらしゃべらなきゃ気まずいし、しゃべったらやっぱりおもしろいということで、必死でコミュニケーションしていたことを覚えています。夏の時期は、日本のオバケの話から始まって、日本語における言霊の概念とかを必死で伝えようとしていたことを思い出します。
そして、高校を卒業すると、リチャード先生としゃべる必要が無くなって、私の英会話能力は見る間に錆び付いてしまったのでした。
もったいないからどうにかしなきゃとあがいた時期もあったのですが、今では、必要になってからまた磨けばいいと開き直っています。
とは言え、小学校受験だなんだで、子どもが英語をやらざるを得ない場合も出てくると思います。そんな時は、コミュニケーション用の道具を学ぶなんて本気で思わないで、単なる記号遊びだといっそ割り切ってしまった方が、弊害が少なくていいように思います。
勉強の才能とは、勉強において達成すべき目標を上手に設定する才能です。つまり、迷路をゴールから考える才能です。
子どもの英語教育におけるゴールを、間違っても「英語によるコミュニケーションが上手に出来ること」なんて設定しない方が良いというわけです。そんなもん、先生も含めて誰一人英語をしゃべれない小学校の英語教育の現場では、無理に決まっているわけですから。
「アルファベットを使った記号クイズに上手に答えられる」あたりをゴールに設定すると、迷路で変なところに迷い込まないで済むと思います。
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